東京都写真美術館によるコレクション展示自主企画。第3弾の今回は戦争突入直前から戦後にかけての写真表現を12人の写真家による作品で辿っていこうというものだ。夏休みのこの時期にジブリやスターウォーズなどという商業主義に走らなかったことを、まず高く評価したい(泣)。単純に入場者数あるいは利益等で美術館の運営を評価することに反対する。展覧会の内容の評価ができるだろうか、できたとしてもそれは学芸に対する介入なのではないかと思われる。公営である以上、監査が入ることは当然だとして、“育む”という文化的な役割について別の尺度を検討したい。さてこの展覧会で重要なのはいわゆる商業写真家だけでなく、アマチュアと呼ばれているものの、表現上重要な作家を取り上げている点ではないかと思う。ここにおけるアマチュアという言葉の意味は、単純に写真によって生計を立てていたかどうかであって、技術上の、芸術上の高低を指して言っているのではないことは明白だ。それでは現在はどうだろう。歴然としてアマチュア写真家は存在するだろう。それは生計云々はもとより、写真的表現の発展に寄与しようとしない人々全般を指すのだ。要するに画壇と同じ構造であることは言を待たないだろう。大人の男の嗜み、或いはステイタスとしてのカメラ所持の副産物としての写真撮影などというもの、そしてあらかじめ思索に至ろうとはしないでカメラを触ろうとする、好奇心旺盛な若い女性たち…。そんなものにどのような意味があるだろう。試しに写真専門誌やカルチャー雑誌をひらいてみれば、そこにそのような人たちの“唯美的”作品が横行していることがわかるだろう。それをただ豊かさの状況として理解してしまってよいだろうか。すべての芸術表現とは自分の言語を発見するところから始まることを確認しておきたい。特に戦時下において表現を強制させられる体験を経たこれらの人々と比較すると余りにも社会的な無力さ、美的脆弱さを思うのである。表現には明確な意思がなくてはならないはずなのだ。なぜ僕はこんなに憤るのか。それは日本の美術の状況がなんでもかんでもセオリー、セオリー(僕の母親が今はやりの絵手紙を習っていて、そこでも筆の持ち方がどうの、色の使い方がどうのと“〜でなければならない”をやるらしい、そんなの楽しけりゃいいじゃん。僕はそう思うのだが。そこからそういう場所における無意味なヒエラルキーが生まれてくるのだ)その対極に素人の感性一発みたいなものが、あまりにも幅を利かせていると思うからだ。僕がこの時点で確実に言えることは、ある表現を選択したとき、同時にその歴史を踏まえなければならないのではないかということだ。そういう覚悟はあるべきだ。私たちはあまりにも歴史を知らなさ過ぎる、語らなさ過ぎる。簡単に動画に物語ること、表現することを明け渡してしまうべきではない。時間に対する概念についても今一度考えていきたい。借り物は修業時代で充分だと思える。当時の静かなる熱気を感じた展覧会であった。監視員の教育(私語)を徹底したい。
『ブラッサイ −ポンピドゥーセンター・コレクション展』
銀座のプランタンでPPSによる『ブラッサイ展』があったのが、90年の4月から5月にかけてのことで、もう15年も前のことになる(その後、神戸に巡回)。時の経つのは実に早い。
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